加納晃ブログ

企業やメディアの真実隠しは国民の判断を誤らせます。これに無関心でいると日本は現在の欧米のように混乱の社会に突入します。善良なる国民であれば、もうこれ以上無関心を装うことはできません。

知らなかった日本共産党の歴史  産経新聞に学ぶ

侵略戦争に唯一反対した党」という自画自賛は本当なのか? 

彼らに与えられた恐るべき「任務」とは…

※この記事は5月27日発売の「日本共産党研究-絶対に誤りを認めない政党」

産経新聞政治部、産経新聞出版)から抜粋しました。

実は、私はこれまで日本共産党の歴史を知りませんでした。

驚きました。

皆さんと共有してみたいとおもいましたので掲載いたします。



 日本共産党は、なぜそこまで警戒されるのか。歴史をひも解けば、その理由はすぐにわかる。

 そもそも日本共産党は1922(大正11)年、旧ソ連のモスクワに本部を置く

共産主義インターナショナル」(コミンテルン)の日本支部として誕生した。

結成当初のメンバーは堺利彦、山川均、野坂参三徳田球一らである。

 ロシア革命(1917年)後の19年、レーニンによってつくられたコミンテルンは、

共産主義の思想を各国に「輸出」し、全世界を「ソビエト化」つまり、

共産主義化することが目的の組織だった。

 当時誕生したばかりのソ連は、一国だけの革命政権が、いずれは他の

資本主義諸国から包囲されてしまうことを恐れ、諸外国にも同様の革命組織が

必要だと考えたのである。このため、各国支部共産主義者たちは、

コミンテルンによるモスクワからの指令と資金提供を受けて、

ソ連のための工作やスパイ活動はもちろん、自国の政治体制を内部から

混乱させて、いずれは自国でも革命を起こそうと考えていたのだ。

公式的な指令は「テーゼ」と呼ばれ、日本共産党にも結党時の

「22年テーゼ」や、その後の「31年テーゼ」などがあるが、

その「任務」を強く打ち出したのが、32年にコミンテルンが決定した

「32年テーゼ」である。ここでは、武力闘争による

「絶対主義的天皇制打倒のためのブルジョア民主主義革命」を

明確に指示しており、これを「綱領文書」と位置付けていたのが

戦前の日本共産党だった。

 25年に日本で成立した治安維持法も、そもそもは共産主義者を取り締まる

ためのものだった。現在では「戦前の悪法」の代表格のように言われ

ているが、「天皇制打破」と「共産主義革命」という、

まさに国家転覆とほぼ同義の言葉を綱領に掲げる組織に対し、

国が警戒するのは当然だった。

 結果的に党指導者らは厳しい弾圧を受け、別の罪で死刑に処される

ものもいた。現在でも、日本共産党は「戦前、侵略戦争に反対した唯一の党」

「獄中で弾圧されても命をかけて戦った唯一の党」などと

常套句のように自画自賛する。だが、こうした「美談」が真実をねじ曲げている

ことは、コミンテルン日本共産党の関係を考えただけでも明らかである。

 当時の日本共産党の具体的な目的は、スパイ活動を通じてソ連に情報を

流し、中国大陸に進出していた日本軍のソ連侵攻を阻止することに加え、

中国で進行中だった共産主義革命を支援することであり、

いずれもコミンテルンが与えた任務だった。

 わが国が先の戦争に至った経緯については議論が分かれるところ

ではあるが、その時、共産党は他国と内通し、他国の指示に従って、

自国の体制を転覆させようとしていたに過ぎなかったのである。

決して「平和のため」に「戦争反対」を訴えていたわけではないのだ。

 こうした見方に対して日本共産党はどう反論しているのだろうか。

2006年9月の「しんぶん赤旗」で、「コミンテルンとの関係どう

考える?」として、読者からの質問に答える形で述べている。

 「北海道の一読者」が《戦前、日本共産党コミンテルン

日本支部として出発したと知りました。

そのこととコミンテルンスターリンの道具になっていたこととの

関係をどう考えているのでしょう》と尋ねたのに対し、

ペンネーム(喜)は、日本共産党コミンテルン日本支部だったことは

当然認めた上で、コミンテルンを設立したレーニンの方針について、

《政治上、理論上の大きな誤りや弱点も少なくありませんでした》

《晩年のレーニンは、あたらしい路線の積極的な探究をはじめて

いましたが、1924年のレーニン死後、その探究もとざされてしまい

ました》と答えている。つまり、「レーニンの考え方にも一部に誤りや

弱点はあったものの、そのレーニンが亡くなってしまったので仕方が

ない」という理屈である。

 では、当時、下部組織だった日本共産党は、コミンテルンに対して

《誤りや弱点》を指摘したり、支部の立場を脱退したりすることはできなかった

のだろうか。これについては次のように答えている。

《生まれたばかりの日本共産党は、今日のような自主的な立場を

自覚的にもつにはいたっていませんでしたが、世界の革命運動の国際的到達点

にもささえられながら、民主主義の実現をめざして天皇絶対の専制政治

うちやぶるたたかいに全力でとりくみました。その点で、戦前の

日本共産党の活動には、日本における民主主義革命の実現を重視した

コミンテルンの前むきの援助とともに、コミンテルンの方針にともなう誤りや

弱点もさまざまな形であらわれました》

 結局、《生まれたばかり》でよくわからなかったが、

天皇絶対の専制政治をうちやぶるたたかい》に日本共産党

全力で取り組んだと言いたいのはよくわかる。ただ、コミンテルンについては

《前むき》だったからよかったのか、《誤りや弱点》があって悪かったのかが、

不明である。なぜこのような奥歯に物がはさまったような評価になってしまうのか。

 それは、後に詳しく触れるが、日本共産党が、「共産主義」そのものを

正面から総括しようとはせず、「レーニンの時代の共産主義はよいが、

その後のスターリンの時代は悪い」という枠でしかものを見ていない

からである。(喜)はさらにこう続ける。

 《コミンテルンは、日本共産党の加入から30年代前半までは、

健全さをまだもっていました。しかし、37年から38年には、

スターリン専制と弾圧がコミンテルンにもおよび、コミンテルンなどで

活動していた外国の共産党の幹部、活動家への弾圧がつよまります。

これ以後、コミンテルンは、スターリンの外交路線への追従と覇権主義的支配の

舞台となるなど、各国の運動の前進をさまたげる反対物に変質をとげてゆきました》

では、なぜ当時の日本共産党は、スターリンと決裂しなかったのか。

(喜)は、まるで他人事のようにこう答えている。

 《当時、日本共産党中央は、天皇制政府の弾圧で獄中にあり、

コミンテルンの変質の進行を知ることはできませんでした》

 日本共産党は、2004年1月に改定された現在の綱領でも

《発達した資本主義の国での社会主義共産主義への前進をめざす取り組みは、

二一世紀の新しい世界史的な課題である》と社会主義

共産主義革命への道を捨てていない。

 1991年のソ連崩壊や、それに従属してきた東欧諸国の崩壊についても

社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義官僚主義

専制主義の破産であった》と切り捨て、あくまで「ソ連社会主義が間違っ

ていた」との論法で自らに火の粉がかかるのを防いでいる。

 つまり、「レーニンはよいが、スターリン以降は間違っている」

とのいつもの理屈だが、73年に改定するまでの綱領ではこうも明記していた。

 《党は、「万国の労働者団結せよ」の精神にしたがって、プロレタリアート

の国際的団結をつよめるために努力する。ソ連を先頭とする社会主義陣営、

全世界の共産主義者、すべての人民大衆が人類の進歩のためにおこなっている

闘争をあくまで支持する》

 ご都合主義もいいところである。

この記事は5月27日発売の「日本共産党研究-絶対に誤りを認めない政党」

産経新聞政治部、産経新聞出版)から抜粋しました。